今日は、九里半街道の散策にスタッフとして参加してきました。
関係者は朝7時30分に上石津体育館に集合して受付の設営、幟の設置等の準備をして参加者を待ちました。
受付時間の8時30分頃から参加者に来て頂き、
9時になり、いざ出陣!!。

散策コースは、
上石津総合体育館を出発した後
馬渕の農道を通り、
藤古川左岸を北上して、
国道365線を横切り、一番目の目的地、
鳥頭坂の島津豊久の碑で高桐秀夫会長からの説明を聞き、

その後、二番目の訪問地、
木曽神社で小笠原豊子さんからのからの説明を聞き、

旧道を通り最後は、
琳光寺の阿多長寿院盛淳の墓と碑で谷口隆康さんからの説明を聞いて、
最後に上石津体育館に戻る散策です。
まずは、スライドショーをご覧下さい。

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まさに戦国時代にタイムスリップして、「島津の退き口」を散策するコースです。
今日はあいにくの天気で途中から小雨が降る中の散策になりました。
藤古川左岸の堤防の桜の葉も散り始めていましたが、雨に濡れた紅葉も良かったです。

最初に訪れた、島津豊久の碑では、
「島津の退き口」の説明を受け、凄いなぁと思いました。
現代でいうと、逆転の発想ですかね??

しかし、よほどの覚悟がないとできない事でしょう。
戦国の武将の凄さは、現代人では考えられないでしょう。
武将も凄いと思いますが、仕える家来もまた凄いですね。
武将のために命を預けるのですから、現代では考えられないです。
まぁ、日頃からそれだけの事を使える家来のためにしていたのでしょう。

二番目の木曽神社では、木曽義仲を祀る神社の説明を受けました。
木曽義仲は、宇治の戦いで31歳の若さで敗死したとのことです。
その後、各地に四散した木曽勢の中に木曽義仲の息女糸姫を守ってこの地に義仲寺を建立したのが始まりだそうです。
その後、明治の神仏分離令により神道祭祀の木曽神社になったそうです。

最後は、琳光寺の阿多長寿院盛淳の墓と碑では、
義弘から賜わった陣羽織を身に着け身代わりになり討死した話を聞き、
先ほども言いましたが、義弘と家老及びその家来との服従の凄さに驚かさせられます。
また、この地を選んで戦ったいきさつも説明して頂き納得しました。
伊勢街道の西東が分かれる地ですから、この場所を選んだのはベストだったのでしょう。


最後に、足元の悪い中、九里半街道の散策におこし頂いた皆様お疲れさまでした。
又、九里半歴史文化回廊の高桐会長はじめ会員の皆さまお疲れさまでした。